日々の御言葉 4月26日

日々のみ言葉 4月26日
○今日のタイトル コリントで
○通読箇所 使徒の働き18章

◇今日の聖句
ある夜、主は幻によってパウロに言われた。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。」

◇ひとくち解説
アテネを去ったパウロは州都コリントでイエスがキリストであることを語り始めます。人口8万の商業都市コリントは、経済的には豊かでしたが、道徳的には退廃していました。その町にやってきた時パウロは「弱く、恐れおののいていました。」(1コリント2:3)経済的にも困窮し、会堂ではユダヤ人たちが反抗して口汚くののしりました。
パウロは不道徳な都市の雰囲気の中で、自分の無力を感じ、耐えがたい嫌気を味わっていたかもしれません。そのようなある夜、主はパウロを励まされます。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいる」そして続けられます。「この町には、わたしの民がたくさんいる」と。「わたしの民」は本来、主との契約の中にあり、聖なる者として区別されたイスラエルの民を指します。しかし主は、享楽におぼれるコリント人の中に、すでに「わたしの民」をたくさん見いだしておられたのです。この、人々に対する愛に満ちた神の眼差しがあればこそ、パウロは一年六か月の間腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けたのでした。
後にパウロは、コリント教会にこう書き送りました。「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。…愛がないなら、私は無に等しいのです。」(1コリント13章)

◇クイズ
18:18で、パウロは誓願を立てて何をしましたか?1.髪を剃った 2.断食した 3.いけにえを捧げた

日々の御言葉 4月25日

日々のみ言葉 4月25日
○今日のタイトル アテネで
○通読箇所 使徒の働き17章

◇今日の聖句
あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。

◇ひとくち解説
ピリピを去ったパウロは、テサロニケ、べレアを苦闘しながら巡ってアテネに入り、残してきたシラスとテモテの到着を待ちます。アテネは人口の3万人よりもはるかに多い神々の像であふれていました。パウロは「心に憤りを覚え」ました。それは義憤だけではなく、真の神を知らない人々への同情でもありました。ユダヤ人の会堂や、広場でイエスと復活を宣べ伝えていましたが、あるときアレオパゴス評議会で、町の中心人物たちに福音を伝えるチャンスを得ます。
この説教を通して、パウロが、聖書の背景を全くもたない人々に、どのように福音を伝えたのかを垣間見ることができます。パウロは、いきなり彼らの文化や宗教を否定し、攻撃しませんでした。後に「すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。」(1コリント9:22)と書いているように、ギリシア人にはギリシア人のように語りかけ、対話を試みました。自分の信仰と彼らの思想の共通点を挙げながら、かつ、相違点をあぶりだしていきます。そして天地の造り主である唯一の神は、死者からよみがえったキリストにおいて、求めれば見いだすことができる…この方こそ「知られざる神」であるという結論へと導いていくのです。
この説教は福音のほんの入り口であり、語られたその場では中断され、聞き入れられませんでした。しかし、種はやがて実を結び、信仰に入る人々が起こりました。その中に、アレオパゴス評議会のメンバーであるディオヌシオもいたのです。一人の救いのためにあらゆる機会を逃さないパウロの姿に感動します。「私は福音のためにあらゆることをしています。」(1コリント9:23)

◇クイズ
テサロニケで、パウロ一行を自分の家に迎え入れた人は?1.ダマリス 2.ユスト 3.ヤソン

日々の御言葉 4月24日

日々のみ言葉 4月24日
○今日のタイトル ピリピで
○通読箇所 使徒の働き16章

◇今日の聖句
真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。

◇ひとくち解説
パウロとシラスに、テモテやルカが加わり、一行は主の導きにより、エーゲ海を越えマケドニアに渡りました。ピリピの町で、主が紫布の女商人リディアの心を開いて、ピリピ宣教の初穂とされ、彼女の家が宣教拠点となりました。
ところが一つの事件をきっかけに無実の罪を着せられ、パウロとシラスは捕えられました。パウロは自らのローマ市民権を行使し、免れることもできましたが、生まれたばかりのピリピ教会を悪評から守るために沈黙し、人々の前で裸にされ、むち打たれ、厳重警戒の「奥の牢」に入れられました。
何も見えない暗がりで、足かせをつけられた二人でしたが、祈りつつ賛美の歌をうたい続けました。パウロは18年前、回心する前の自分がエルサレム教会の上に同じ仕打ちをしたことや、天使のように輝くステパノの顔を思い出していたかもしれません。そのとき地震が起こり、扉は開き、鎖は外れてしまったのです。真っ暗闇で見えないにもかかわらず、看守が自害しようとしているのをパウロは知り「自害してはいけない」と叫びました。地震は牢獄の土台を揺れ動かしましたが、パウロの愛は、看守の心を震えさせました。「何をしなければなりませんか」と問う看守に、無罪の自分たちを逃がせとは言わずこう言います。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」看守は二人の傷を洗い、主は彼とその家族の罪を洗い流されました。
後にパウロはピリピ教会にこう書き送りました。「私の願いは、…生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」(1:20)

◇クイズ
今日はお休み

日々の御言葉 4月23日

日々のみ言葉 4月23日
○今日のタイトル  聖霊と私たちは
○通読箇所 使徒の働き15章

◇今日の聖句
私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。

◇ひとくち解説
パウロとバルナバによる、1年間の宣教によってアンティオキアに教会が誕生し、そこでイエスに従う者たちは初めて「キリスト者」と呼ばれるようになりました(11章)。そのアンティオキアから二人は最初の宣教旅行に出かけ、帰ってきました。(14章)その町で一つの論争が起こり、教会は分裂の問題に直面したのです。それは、割礼を受けモーセの律法を守らなければ、異邦人は救われない、という教えについてでした。
この問題はエルサレム教会へと持ち込まれ、教会のリーダーたちによって協議されました。議論の中ではっきりしてきたことは、
1.異邦人の回心は人間の戦略ではない。彼らを顧みて、お召しになったのは、神だということ。
2.彼らが救われたのは、福音のことばを聞いて信じた結果であり、主イエスの恵みによるということ。
3.律法によるのではなく、恵みと信仰によって、すでに彼らは神の民となり、主の名で呼ばれる者たちになっているのだということ。
…それゆえに、この救いに加えて律法のくびきを負わせることは、神を試みることになるのです。
聖霊と私たちは…決めました」(28節)という表現は重要です。この決定は聖霊が直接語りかけて一方的に指示されたものではありませんでした。聖霊の導きの中で話し合い、聖書の御言葉によって進むべき道を見いだし、聖霊と教会の共同作業で出された決定だったのです。現代でも教会には様々な意見の違いがあります。その中で「聖霊と私たちは…決めました」と行くべき道を見出したいものです。

◇クイズ
37節でバルナバとパウロが二回目の宣教旅行に連れて行くかどうかで議論になったのは誰についてですか?1.シラス 2.マルコ 3.ユダ

日々の御言葉 4月17日

日々のみ言葉 4月17日
○今日のタイトル 選びの器
○通読箇所 使徒の働き9章

◇今日の聖句
あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。

◇ひとくち解説
8章に続いて主は、福音が地の果てにまで広がるための準備を進められます。9章ではそのために一人の人が選ばれます。それは、こともあろうに、主の弟子たちを脅かし、殺害しようと企てていたサウロでした。
天からの光を受け、自分の名が呼ばれたとき、聖書に精通するサウロは、その光が神の顕現であると分かりました。彼は尋ねます。「主よ、あなたはどなたですか」彼が「主」と呼んだお方の答えは、驚くべきものでした。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(5節)わたし(イエス)は主である…この光に打たれたサウロは、肉眼に光を失いました。
「この道の者」(2節)を捕らえに来た彼が道を見失い、サウロに捕らえられてエルサレムで殺されるはずだったアナニアが、サウロを神の愛によって捕え、キリストのもとに連れて行くことになりました。
イエスの名を呼ぶ者たちを捕縛するはずのパウロ(14節)が、イエスの名を運ぶ器として選ばれ、イエスの名のために苦しむ使命を与えられたのです。
5節に「あなたはどなたですか」と尋ねて以来、一言も発しなかったサウロが次に語った言葉は「この方こそ神の子です」(20節)でした。
三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった古いサウロは、キリスト共に葬られ、聖霊のバプテスマによって新しい人へとよみがえりました。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)

◇クイズ
ダマスコに入ったパウロが滞在したのは誰の家でしたか?1.ユダ 2.アナニア 3.バルナバ

日々の御言葉 4月16日

日々のみ言葉 4月16日
○今日のタイトル ピリポ
○通読箇所 使徒の働き8章

◇今日の聖句
人々は、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えたことを信じて、男も女もバプテスマを受けた。

◇ひとくち解説
8章から本書は新しい展開を見せます。福音がエルサレムという地域を越えて、地の果てへと広がる第一歩です。
福音宣教は、しばしば綿密に建てられた人間の計画によりません。しかも、人の目から見ると危機や迫害など、もっともふさわしくない状況から始まります。8章では、ステパノの殉教とその後の迫害によって、やむを得ずエルサレムから去らなければならなくなった信徒たちが、福音を伝えながら巡り歩いたことが新時代の始まりのきっかけになりました。その中にピリポがいました。8章には彼の2つの働きが記されています。サマリアの町とエチオピア人宦官の救いです。一方では町全体に喜びがもたらされ、もう一方ではたった一人のために喜びがもたらされました。両者には以下の点で共通点があります。
1.人間の計画によるのではなく、聖霊の導きによる。ピリポは置かれた場所で忠実にその使命を果たした。
2.ユダヤ人たちから疎外されてきた人々、自分たちと文化や習慣が違い、本来理解し合えない人々の中に救いがもたらされた。
3.異なる背景をもつ人々への「過度な配慮」によって福音が薄められることなく、イエス・キリストそのものが大胆に語られ浮き彫りとなった。
このピリポの2つの物語は、今も、地の果てに至る福音宣教のモデルと言えるでしょう。

◇クイズ
8:28によるとこのエチオピア人はどこでイザヤ書を読んでいましたか?1.水辺 2.神殿 3.馬車

日々の御言葉 4月15日

日々のみ言葉 4月15日
○今日のタイトル 人の子が神の右に
○通読箇所 使徒7章

◇今日の聖句
「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」

◇ひとくち解説
第7章は本書の第一部の結びであり、第二部への架け橋です。ステパノはエルサレムの指導者たちに捕らえられ最高法院で尋問を受けます。ステパノの証言は本書で最長の説教です。そこには、神とイスラエルの民との関係の歴史が凝縮されています。先祖たちの聖霊に逆らう性質(51節)によって、あなたがたも「この正しい方」イエスを裏切り殺す者となったっと指摘します。この説教の頂点・結論が56節です。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」かつてアブラハムに現れた「栄光の神」(2節)が天を開いて見せられるのは、神の栄光を共有しながら立っておられるキリストです。イエスは、最高議会の権威のはるかに凌駕する神の権威をもって、審判者としてステパノの証言を受け入れるために立ち上がられるのです。
「心と耳に割礼を受けていない」彼ら(51節)にとってそれは神への冒涜にしか聞こえません。ステパノを町の外に追い出し、石を投げつけました。ステパノは主を呼びます。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」イエスは主であるという信仰の告白であり、また、自分のいのちはこれで終わるのではなく、イエスの御手のうちに受け取られ、永遠に続くという希望の表明です。そしてひざまずきます。ステパノをひざまずかせたのは迫害の石ではなく、うちに燃える十字架のキリストの愛でした。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」このイエスの祈りをもって一粒の麦となり眠りについたのです。ステパノの祈りは、やがて、それを目撃した青年サウロの上に実現し、豊かに実を結ぶことになります。

◇クイズ
7:30によると燃える炎の中で、御使いが現れたのは、モーセが何歳のとき?1.40歳 2.80歳 3.99歳

日々の御言葉 4月12日

日々のみ言葉 4月12日
○今日のタイトル いのちは血の中に
○通読箇所 レビ17-18章

◇今日の聖句
実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。

◇ひとくち解説
レビ記の心臓部「大贖罪の日」についての章に続き、17章では、いけにえの血の意味が明らかにされます。血はいのちであり、捧げられたいのちのゆえに、民は罪による死からまぬがれるのです。その血(いのち)は、民が自分で獲得したものではなく「これをあなたがたに与えたוַאֲנִי נְתַתִּיו לָכֶם」(17:11)と主は言われます。主が、民のために贖いの代価として血を与えられるのです。(マルコ10:45)
18-22章は、聖への招きです。生活の様々の点において、神に属する民としてふさわしく歩むよう招かれます。その初めに主は言われます。「あなたがたは、わたしの掟とわたしの定めを守りなさい。人がそれらを行うなら、それらによって生きる。わたしは主である。」この「生きる」とは、神との交わりの喜びを楽しむことです。「行う」とは、聖へと招かれる神の恵みに応えて、それにふさわしく歩むことを意味します。
ルカ福音書10章ではこの聖句を念頭に、律法の専門家が「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」とイエスに尋ねます。永遠のいのちは、人の努力や行いによって獲得できるものと誤解していたのです。恵みによる招きがあってはじめて、人はいのちの道を歩むことができます。
ヨハネ福音書15章でイエスは、「わたしの愛にとどまりなさい」と招かれた上で、弟子たちに命じられます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」と。愛したからいのちにとどまることができるのではなく、招きにこたえてイエスのいのちにとどまることで愛することができるのです。それが聖別されるということです。

◇クイズ
今日はお休み

日々の御言葉 4月11日

日々のみ言葉 4月11日
○今日のタイトル 第七の月の十日
○通読箇所 レビ15-16章

◇今日の聖句
これは年に一度イスラエルの子らのために行われる、彼らのすべての罪を除く宥めである。

◇ひとくち解説
11-15章にはきよいものと汚れているものとを分ける諸規定が示されました。11章=食物規定 12章=出産規定 13-14章=ツァラアトの規定 15章=性的漏出の規定…これらはすべて「いのち」に関することがらです。「いのち」は神に属することであり、神に連なる民は日常生活においても、注意深く自らを「死」から遠ざけ、分けることが求められたのです。
それを受けて、16章では年に一度の「大贖罪の日」について記されています。意図して犯した罪は、その都度きよめの儀式が行われますが、知らずに犯した罪も含めて、その年のすべての罪から民を清める儀式です。出エジプト記30:10で「最も聖なるもの」と端的に表現されたこの儀式は、レビ記の中心に置かれ、いわば心臓部です。
新約聖書ヘブル人への手紙の著者は、この「大贖罪の日」の儀式が、来るべきメシアによる贖いの模型であったと指摘します。キリストは大祭司として来られ「雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」(ヘブル9:12)御子イエスが十字架の上で流された血は、すべての人を「死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者に」するのに十分な力があります。(同14節)こうして「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」(同10:10)
これがレビ記が指し示す希望なのです。

◇クイズ
16章で、民の罪を負って荒野に追放されるやぎは何と呼ばれましたか?1.アザゼル 2.アブネル 3.イゼベル

日々の御言葉 4月10日

日々のみ言葉 4月10日
○今日のタイトル ツァラアト
○通読箇所 レビ13-14章

◇今日の聖句
祭司はその患部をきよいと宣言する。彼はきよい。

◇ひとくち解説
11-15章のきよいものと汚れているものとを分ける諸規定の中ほど、13-14章に「ツァラアト」に関する決まりがあります。ツァラアトがどの病のことを指しているのかは明らかではありません。ツァラアトは人間だけではなく、衣服や家の壁にも現れますので、病気だけを表すのでもなさそうです。細菌やウィルスなどの病原体などについて全く知見のなかった古代においては、病気を治療する手段はほとんどなく、表面に現れて広がっていくのを見守るしかありませんでした。古代の人にとっては病気は克服できるものではなく「死の始まり」であったのです。
そもそもこれら全ての規定は、神とそれ以外のものを「分ける」ことを民に意識させるためのものでした。神は「いのち」であり、いのちの対極にあるのは「死」です。いのちと死を区別するために、祭司は病気を「きよい」「汚れている」と宣言し、分けたのです。それは「いのち」を、神に属するものとして際立たせ、民に意識させるためでした。祭司は分けるだけで治療することはありません。
そのような背景を知ってマタイ福音書8:1-4を読むと、イエスがツァラアトをきよめられた奇跡がいかに驚くべきことであったかが、よく分かります。イエスは、いのちと死を分ける隔てを乗り越え、死に触れていのちへと変えることのできるお方です。きよいものと汚れているものを分けるだけでなく、すべてをきよくする権威をもっておられます。なぜなら、イエスがいのちの根源だからです。「この方にはいのちがあった。」(ヨハネ1:4)

◇クイズ
14:4の清めの儀式で使われる3点の道具は、緋色の撚り糸とヒソプと何?1.オリーブの枝 2.杉の枝 3.アーモンドの枝