古人の求めたるところを求めよ

古人の跡を求めず 古人の求めたるところを求めよ  芭蕉句

松尾芭蕉はこの句の中で、単に古人が成した偉業を真似することに終わってはならない。その古人が理想としたところ、そのものに対する姿勢、精神を追求すべきであると言っています。

9月は、わたしの恩師であり、聖イエス会の創立者である大槻武二牧師が天に召された記念の月です。師は数々の跡を残してくださいました。リバイバル(信仰復興運動)、病の癒し、力強く流麗な説教、神学院の設立、キリスト教とユダヤ教の愛の架け橋…数え出したらきりがありません。この記念の月、わたしは弟子の一人として、単に師の足跡を懐かしみ、それを模倣し、守ることだけに終始したくありません。それよりも、師の追い求めたものを求めて行きたいと願います。

師が生涯追い求められたことは、「キリストのように生きる」ことであったと思います。キリストの言葉を語るだけの聖職者ではなく、現代を生きる「もう一人のキリスト」となり、生きた福音となり、神と人とに忠実にお仕えすること。神の愛を見えるようにあらわす人。この精神を追求し続けたいと思います。

わたしの好きな言葉に「伝統は挑戦してこそ守られる」があります。伝統を守ろうとするあまり、本来それが持っていたはずの柔軟さ、真の自由を失い、型にはまり、形ばかりの模倣に終わっているとするなら、伝統は生ける屍となる危険をもっています。先人が追い求めた理想を絶え間なく追求し続ける挑戦は、一見伝統を破壊するようように見なされ、危険視されるかもしれませんが、そのたえまない真摯な努力こそが、伝統の新たな価値を創造するのだと思います。そのことをわたし自身への戒めとして、絶えず胸にとめておきたいと願います。そして、古人が求めたるところの未踏の域へ踏み出したいのです。

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説教メモ:アブラハムのヒネニ

アブラハムのヒネニ~ここにわ たしがおります。
【導入】
「ここにわたしがいます」=ヘブライ語でヒネニ。
旧約聖書の聖徒たち、アブラハム、モーセ、サムエル、イザヤ…みな神の呼びかけにヒネニとお応えし、御言葉に従った。
その呼びかけはしばしば大きな困難を伴うものだったが、彼らが無条件でヒネニと答えた時、
主もまた、「わたしはここにいる」と言って、彼らと共にあり、素晴らしい祝福を与えられた。
神の呼びかけに、ヒネニと応える人々を通して、神は人類に祝福を与え、世界を変えてゆかれた。
アブラハムもまたその一人。
アブラハムのヒネニの態度とは・・・創世記22章の「イサクの奉献」の記事から学ぶ。

アブラハムはこの神、すなわち、死人を生かし、無から有 を呼び出される神を信じたのである。
彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。(ローマ4:17-18)


【1】

「これらのことの後で、神はアブ ラハムを試された。」

<人生最後にして最大の試練の始まり>
神の呼びかけ「アブラハムよ」>>アブラハムは、ただちにこたえた。「Hineni はい」
そのヒネニこそは、人生で最後のそして最大の試練の始まりだった。
その試練は、金を精錬するよりもなおも強烈な炎のようだっ た。
<主の命令>
何の理由も宣べられず、淡々と命じられた。

*「あなたの 息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。
わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」 *


■非情な命令
■不合理極まりない_命令
神様 はこのイサクを通して子孫を与えると約束された、その約束を神様ご自身が破るということを意味していた。
人をいけにえとして捧げることは、異教の風習であり、神様が嫌われる殺人の罪を犯せという命令だっ た。
我々に襲い掛かる試練もまた、時として非情であり、ま た不合理なものだ。
<アブラハムの答え>
「次の朝早く、神の命じられた所に向かって行った。」
その晩どれほどアブラハムは苦しんだことだろう。おそらく一睡もできなかったに 違いない。
しかし、聖書はそのことを何も語らず、ただ、淡々と事実だけを告げる。
こ れがアブラハムの「ヒネニ」の態度だ。理由は分からない。どんな結果が待っているかもわからない。
常識的に考えれば非合理的だ。しかし、神様が言われるのだから、間違いはない。
アブラハムが付き添ってきた若者に言った言葉。
「お前たちは、ここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、ま た戻ってくる。」
わたしは…ではなく、私たちはまた戻ってくる!ここにアブラハムの信仰を見る。
_わたしと息子とは戻ってくる_
アブラハムはこの 神、すなわち、死人を生かす神を信じた。
【2】

「アブラハムは、焼き尽くす献げ 物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせた。」

自分の最愛の息子に、息子自身を焼き尽くす薪を背負わせるアブラハム。
その心内はどんなだっただろう。
<イサクの問い>
沈黙を破って、イサクは無邪気に父に呼びかける。「お父さん」
アブラハムの二回目のHineniは息子イサクに対してだった。「Hineniここにいる、わたしの子よ」
イサクは言った。「焼き尽くす_献 げ物にする小羊はどこに_いるのですか。」
この質問はどれほど父アブラハムの胸を痛めたことか。
まさに息子イサクの胸を突くことは、自分の心臓を貫くよりも 痛みを伴うものだった。
<アブラハ ムの答え>
アブラハムは答えた。*「わたしの子よ、献げ物の小羊はきっと神が備え てくださる。」*
神が備えてくださる。アブラハムは息子に対して「神が備えてくださる」との信仰のあかしした。

【3】

「神が命じられた場所に着くと、 アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。」
まさにナイフが、息子の胸におろされようとしたそのときだった
「アブラハム、アブラハム」主は呼びかけられた。アブラハムは答えた。*「ヒネニ、はい」*とこたえた。

主は言われた「その 子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。
あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

<神の出された答>
■主は献げ物として、一匹の雄羊を準備して下さった。
■「あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。」
ここでは子孫は単数形。たくさんの子孫ではなく、アブラハムの子孫とし て生まれるメシアを指す。
やがてメシアが、人類の敵である死と罪とを打ち破って完全な 勝利をとってくださる。
「あなたの子孫は敵の城門を 勝ち取る。」=_メシアによる全人類の救済を意味している。
これがアブラハムのイサクに対する言葉「献げ物の小羊は神が備えてくだ さる。」に対する神の答。
ただ一匹の羊が備えられるだけで終わったのでなかった。
アブラハムは「独り 子をも惜しまない神への愛」をもつことによって、
「ひとりごイエスキリストをも惜しまない神の人類への愛」と一つとなった。

そのことによって、アブラハムの子孫からメシアが生まれ、
メシアによって人類に完全な救いがもたらされるという、壮大 な神のご計画の扉が開かれた。
【結び と奨励】
アブラハムとイサクは共に神を礼拝して言った「主の山に備えあり」。
主の山=モリヤの山の「モリヤ」は没薬を意味するヘブライ語 からできている。
我々もまた 没薬の山、十字架の山、カルバリーの山に登ろう。
そこで全存 在を主にお献げし、主の愛と一つとなろう。
そのとき、 主は、わたしたちの全存在をお受け取りくださり、
人類の救い の約束を、実現成就して下さる。
Abraham_isaac

????????? Hineni ヒネニ わたしがここにおります

聖書の中には神様の呼びかけに ????????? <Hineni ヒネニ わたしがここにおります>とお答えした人々が登場します。それはどんなときだったのでしょうか。

■ 神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」 ????????? と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを…焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」 創世記22:1-2

神様がアブラハムをよばれたのは、信仰の試練として息子イサクを捧げよと命じるためでした。アブラハムは無から有を呼び出される神様を信じて、その呼びかけにお応えしました。

■ 神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」 ????????? と答えると、神が言われた。…「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」 出エジプト記3:4,9-10

神様がモーセを呼ばれたのは、世界最強の国エジプトから、奴隷の民であったイスラエルを連れ出すためでした。モーセは「わたしはある」というお方を信じてその呼びかけにお応えしました。

■ 主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」 ????????? と答え(た)。主はサムエルに言われた。「見よ、わたしは、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。」 ?サムエル3:10-11

神様が少年サムエルをよばれたのは、「堕落した祭司の家への罰」という最悪のメッセージを伝えるためでした。サムエルは共におられる主を信頼してその呼びかけに答えました。

■ そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。????????? わたしを遣わしてください。」 イザヤ6:8-9

神様がイザヤを呼ばれたのは、聞いても悟らないかたくなな民に主のメッセージを伝えるためでした。イザヤは聖なる主のうめきに応えて立ち上がりました。
このように、神様の呼びかけにはいつもリスク(危険)がともなっていました。けれども聖徒たちはその十字架を負うことによって、主の期待に応え、世界を変えていったのです。
リスクのない信仰生活はありません。けれども共におられる主に信頼してリスクを承知で一歩踏み出すとき、主がそこに働いて、わたしたちを祝福の源とし、世界を変えるすばらしい御業を行ってくださるのです。
主イエスキリストは、あなたを呼ばれます。「自分の十字架を負って、わたしに従いなさい。」主の呼びかけに ????????? <ヒネニ わたしがここにおります>とお応えしたいものです。
Hope_cross