純金の信仰へ

「彼(キリスト)は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、

金や銀のように彼らの汚れを除く。」

  • レビの子(祭司)=わたしたち。「わたしたちを神に仕える祭司としてくださった」(黙示録)
  • 主ご自身が、私達を純金とするために、神化するために、座して、熱心に、徹底的に取り組んでおられるさま。
  • 職人の姿を思い起こそう=普通の人は近づけない高温のるつぼ。どろどろの金属
  • その前で、顔まで首まで真っ赤にして、汗を流しながら、黙々と精錬する職人。
  • しかも、火の粉が飛び散るような危険なところで、「座って」。

 

 

■ なぜ?

エルサレムの神殿の至聖所において、神の尊前で燃えて輝くメノラは、純金でなければならない。

同様に、神のみ前に立つわたしたちは、純金の信仰者でなければならない。

キリストの教会はキリストの体であり、原理的に純金であるべきです。

「教会はキリストの体であり、

すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちている場です。」(エフェソ 1:23)

燃え盛るるつぼの前で、主は座して、金を精錬しておられる。私たちを清め、精錬しようとしておられる。

わたしたちの全存在を、そのるつぼの中に投げ込もう。

たとえどんなに純度が低くても、また、鉱山から掘り出されたばかりの岩のような心であっても

キリストの愛のるつぼの中でなら、純金となることができる。

十字架のキリストの燃え盛る愛こそ、そのるつぼ。

 

 

■ どのようにして、わたしたちを純金の信仰者へと精錬して下さるのか?

「試練を経たあなた方の信仰は、火で精錬されて滅び去る金よりもずっと尊いものです。」

試練によってわたしたちの信仰は純金に変えられていく。

「試練を経たあなた方の信仰は金よりもずっと尊い」

  • このみ言葉を記したのはペトロ。ペトロもまた試練を通された。
  • 十字架につけられようとしているイエス様を裏切り、あんな人は知らないと3度も主を否定した。
  • そのことで、どんなに心が責められ、涙しただろう。悔やんでも悔やみきれない人生の汚点。
  • そのとき、えぐられるような心の痛みの中で、ペトロはイエス様の言葉を思い出した。
  • 「シモン、シモン、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」

「キリストは、わたしたちの弱さに同情できない方ではない。

罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」

だから大胆に主に近づこう」

主はあなたの試練を知っておられる。あなたのために祈っておられる。

あなたと共にその十字架を背負ってくださる。

だからどんな試練のただ中にあっても、大胆に主に近づこう

 

■ 試練を経た後、わたしたちはどうなるのか

試練を経たあなた方の信仰は金よりもずっと尊い

あなたがたは、信じて、言い尽くせない輝かしい喜びにあふれています。

イエスが生きておられること、わたしたちの内に宿り、歩んでおられることを、

もっと深く、もっと確かに、知るようになる。

そしてそのことによってより大きな喜びへと導かれる。

「言い尽くせない輝かしい喜び」

  • ペトロはそう言った。それはペトロ自身の実感だった。
  • 確かに、ペトロの試練は人生の汚点であり、最暗黒だった。
  • しかし、そこを通ったからこそ、ペトロは言い尽くせない輝かしい喜びを体験した。
  • 私達が試練を通して、輝かしい喜びにあふれるその時わたしたちは暗い世にあって、光り輝く純金の燭台となる。

試練がなければ、信仰は生まれない

信仰が生まれなければ、喜びは生まれない。

喜びがなくては、輝くことはできない。

「あなたがたの光を、輝かせなさい。」

純金で燭台を作りなさい

■今年の標語:純金で燭台を作りなさい(出エジプト記25:31)

=「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会」の完成

 

■具体的に何を目指せばよいのか?出エジプト記25章から学ぶ

?燃えて光を放つ

燭台ははエルサレム神殿の聖所に置かれていた。

  • 聖所には一つも窓がなく、物理的に光が必要であった。
  • またその光は、神の臨在の象徴、神がそこにおられることのあかし。

神殿=神と人との出会いの場

⇒現代における神と人との出会いの場=心に神様を宿す人

  • 主イエスは言われた「あなたがたは世の光である。あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」
  • わたしたちは言葉、行いによって、世にあって輝いているだろうか?

■燃えて輝き続けるための不可欠条件

  • 神殿では毎日欠かすことなく燭台に純粋なオリーブオイルが注がれた
  • 絶え間なく神のみ前に燃えて輝くためには、神との一致において絶えず聖霊の油を注がれなければならない。

「起きよ、光を放て。」(イザヤ 60:1)

  • 自分自身を見て絶望することはない。
  • 「主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。」イザヤ 60:19)
  • 心が無垢で純粋であるなら、みごとに神の現存を放射する器となる

 

?樹木をかたどっている=成長し実を結ぶ

燭台の造作=萼と節と花弁、花、七つの枝、これらは植物の器官

■純金の教会は命の木となり、成長し、花を咲かせ、実を結ぶ。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。 人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。 わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしの愛にとどまりなさい。」

■幹であるキリストと、枝である教会、この両者が合体するなら、多くの実を結ぶことができる。

  • もし、純金のメノラのうちにキリストが現存し、キリストが純金のメノラの間を歩んでおられるならば、教会は成長し多くの実を結ぶ
  • 私につながっていれば…これだけが条件。人材がいれば、企画力があれば、ではない。

黙示録が書かれた当時、エフェソにあった教会は、信仰を守ることにおいて、抜きんでた教会だった。

しかし、七つの金の燭台の間を歩く方は、次のように指摘された。

「あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。 だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。 わたしの愛にとどまりなさい。わたしにつながっていなさい。」

?一枚の純金から打ち出して作られる…

■純金のメノラは一枚の板からつくられた。それは一致をあらわしている。

聖書は言っている。「主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。」

キリストが十字架に上げられる前に、弟子たちを愛して、祈られた祈りを思い出そう。

「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。 わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」

  • 争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢…純金の教会、クリスチャンにはふさわしくない。
  • そのためにこそキリストは十字架によって敵意を滅ぼされた。
  • 冷たい金が溶かされ、液体となるように、十字架の愛によって一人一人がとかされるならば、私達も純金の燭台となることができる。

■十字架という愛の溶鉱炉の中で、死ぬほどにまでに私たちを愛して下さったキリストの愛に、すべてを委ねて飛び込もう。

キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったのは、 …教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。

純金の燭台となるために

今年の標語は『純金で燭台を作りなさい』(出エジプト25:31)です。

「純金の燭台」は、やがて完成される「栄光に輝く教会」を象徴的に表しています。

純金の燭台である教会を聖書の別のお言葉に置き換えると、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:23)ということです。それは、教会を構成している私たちひとりひとりが、キリストのいのちに浸透されることによって実現します。そのためにこそ、主は十字架の上でご自身の全存在をわたしたちにお与えくださったのです。「キリストが<教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった>のは、…教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(エフェソ5:26-17)

福音教会が純金の燭台となるために2012年目指したい3つのこと

? 純金となる問題と祈りを共有すること

純金となるためには、不純なものを一つ一つなくしていくことが必要です。教会にはまだまだ不完全なところがあります。それらの問題に対して、「そのうち何とかなる」とやりすごすのではなく、悪い所を具体的に挙げて、教会全体のこととして受け止め、そのために共に祈り、純金になるために積極的に行動に移していきたいと思います。

? キリストの体御心を知るために聖書を学ぶこと

キリストの体の部分であるわたしたちは、頭であるキリストの御心をよく知る必要があります。主は今わたしたちに何を求めておられるのか。その解答はすべて聖書の中に記されています。キリストの御意思がすみずみまで行き届いている教会となるためには、聖書をより深く広く学ぶ必要があるのです。礼拝以外の場でも聖書を開く生活を目指していきましょう。

? 輝く燭台光を世に輝かせる <Go Go Gospel>

質的な成長はおのずと数的成長、完成へとつながっていきます。福音教会はその一つの目標として、次の5年間に現在40人の平均礼拝出席人数を50にできるよう、福音(Gospel)を宣べ伝えていきます。5年(Go)で50人(Go)の福音(Gospel)、名づけてGo Go Gospel(ゴーゴーゴスペル=行け行け福音)計画です。純金の燭台目指して共に今年一年前進していきましょう!

「わたしはある」という贈り物

【1.モーセにあらわされた神の名】

我は有て在る者なり(文語訳)

??????? ?????? ??????? (エヒエー アシェル エヒエー ヘブライ語)

I AM THAT I AM (英語欽定訳)

わたしは、有って有る者 (口語訳)

わたしはある。わたしはあるという者だ (新共同訳)

この御名は「ある」という言葉を二つ重ねてなる。

  • 全てにおいてすべてを満たしているお方
  • 時間にも、空間にも、束縛されず、限定されず、「ある」
  • しかも、空想の産物、哲学の概念でもなく、実際に存在し、生きて、働かれる。

なぜ神は人間にご自分の名を知らせられたか?

その必要は全くない。=自らが自らのために存在し、誰の存在も、何の助けも必要のないお方。

そのただ一つの動機は「愛」

愛とは一言で言って与えること。

【2.贈り物】

  • それは自分自身の心を与えること、受け取った人は、心を受け取る。
  • 最も尊い、次元の高い贈り物は、自分自身を与えること。
  • 神は、ご自身を与えたいと願われた。それ程愛された。
  • そのために、ご自分の御名をあらわされた。ご自分を受け取ってほしいと差し出された。
  • 出エジプト3章のモーセと神との出会いの記事 単なる自己紹介ではない…ご自分を与えたいと願われる神の決意。

☆御名を知らせること=自分を与えること⇒イエスの祈りにもあらわれている。

「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。

わたしも彼らの内にいるようになるためです。」

【3.神の贈り物を拒絶してきた人類】

わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。

  • 神がこのように御名を知らせ、御名を呼ぶときに共にいることを約束された。

「わたしはある」この愛のプレゼントを人間はどううけとっただろう?

  • 人間はこのプレゼントを拒絶した。もう持っているからいらない。
  • 特にこの数百年それはどこまでもひどくなった。
  • どこまでも続く経済や産業の発展という妄想。
  • 努力すれば何でも実現できるという思想に酔いしれた。自己実現こそが人生の意味と言われた。
  • 「個性」という名を借りて、欲望のままに、自分のやりたいことを自分のやりたいようにする、ことが美しいことでもあるかのようにもてはやされた。

昨年、震災や、経済危機、多くの人がその考えに疑問を感じ、立ち止まった。

  • 努力したってどうにもならないこともある。人間には限界があるそう多くの人が感じた。
  • 人類が久しく忘れていた、人間を越えた存在にすべてを委ねるという心を思い出させてくれた。
  • それは謙遜の心。

 

【4.モーセが神の御名を受け取るまでの道のり】

  • モーセはイスラエル人の親を持ちながらエジプトの王妃に拾われ、ファラオの子として育てられた。
  • 世界の覇者であったエジプトの富と権力をもっていた。
  • 神はこのファラオの子モーセをイスラエルの解放者とされただろうか?
  • ファラオの子としてなら簡単にイスラエルを奴隷から解放できたかもしれない。しかし、神はそうはお考えにならなかった。
  • 40歳になったモーセ。自分は正しい。しかも何でもできると思っていた。
  • イスラエル人の奴隷が、エジプト人にいじめられているのを見て、怒り、殺してしまった。正義
  • そのことで国を追われ、ミデアンの荒野に命からがら逃げてきた。
  • 富も、権力も、すべてを失った。・・・他人の羊を飼って生活していた。はく奪の40年間。
  • その間に彼は、一つ一つ自分の弱さを知っていった。
  • 今までもっていた力は、単にファラオの子という肩書から生まれた空想にすぎなかった。
  • こうして、ついにその時が来た。燃える柴の中から神は語りかけられた。

「足から履物を脱ぎなさい。」

  • ついに彼ははだしになり、奴隷と同じ姿になった。
  • 神から、イスラエルの解放者となる偉大な任務を委ねられた時、モーセは答えた。

「わたしは何者でしょう。」

  • 「わたしは何者でもありません」 「無に等しいもの」
  • ファラオの子としてなら堂々とこの任務を受けたかもしれない。しかし彼は無だった。

無私無欲な道、自分を無とする道こそ、人が本当の自分を見出すための道。謙遜の道

そのとき人は、自分の殻を潔く捨て去り、自分という限界を超えることができる。

  • 彼が完全に無となったとき、神の愛の贈り物、神の存在を受け取る準備ができた。

主は言われた。わたしは必ずあなたと共にいる。「わたしはある。わたしはあるという者だ」

  • こうしてモーセは、自分の存在と神の存在とを交換した。自分の存在の意味をついに発見した。

 

【5.神の贈り物を受け取ろう】

  • この新年、何を求めるのか? ちっぽけなご利益、自分が描いた限界だらけの幸せか?
  • 神はこの新年「わたしはある」とご自分を与えようとしておられる。

「わたしはある」と言われる方の前に、「わたしは無です」と自らを低くし、すべてを明け渡して御名を呼ぼう!

そのとき、主は、ご自分の存在そのものをあなたの心に満たしてくださる!

これが神様があなたに与えようとしておられる、新年の祝福!

神はわがやぐら

Luther's_Ein_Feste_Burg今日、10月31日は宗教改革記念日でした。M.ルターは「聖書によれば、人間は善行でなく信仰によってのみ義とされる、すなわち人間を義とするのはすべて神の恵みである」として、煉獄にある霊魂が善行によって救われるなどとする当時の教会の考えに異議を唱えました。1517年のこの日「95か条の論題」をヴィッテンベルグのチャペルの扉に貼り出し、意見交換を呼びかけました。このことがきっかけとなり、いわゆる宗教改革がスタートしました。

訓練を受けた聖歌隊だけが複雑な合唱曲を歌うばかりであった教会の礼拝に、もう一度会衆の賛美の歌を取り戻すため、ルターは単純で歌詞の聞き取りやすい会衆賛美歌(コラール)を積極的に紹介しました。ルターは「詩編はイエスキリストの讃美歌だ」と詩編の重要性を強調していますが、彼は詩編にもとづいた賛美歌をたくさん書いています。その中でも特に有名なのが詩編46編に基づいて作られた賛美歌「神はわがやぐら」です。音楽の教養もあったルターは、この詩に対して自分でメロディーを作曲して紹介しています。

今年は、この「神はわがやぐら」と詩編46編をおもう時、東日本大震災のことを考えずにはおられません。詩編の作者は二つの水を対比させて歌っています。一つの水は、「海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」…災いをもたらす水です。津波の被害を連想させます。しかしもう一つの水は「大河とその流れは、神の都に喜びを与える」…喜びと平安の水です。その喜びの水は、神がおられるところにあると歌うのです。どうか震災で被災されたお一人一人と共に神様がいてくださり、心に慰めと平安を与えてくださいますように。

詩編46編より

神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
わたしたちは決して恐れない、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも
海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。
大河とその流れは、神の都に喜びを与える、いと高き神のいます聖所に。
神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。

賛美歌「神はわがやぐら」のルターの旋律は、多くの作曲家によって用いられています。バッハのオルガン曲(BWV720)やカンタータ(BWV80)、またメンデルスゾーンの交響曲第五番『宗教改革』などが有名(マニアックなところではドビュッシーの連弾曲「白と黒で」~ En blanc et noir”にもでてきますが…)ですが、今年はブクステフーデのオルガン曲(Bux148)でこのコラールを味わってみました。旋律にかなり装飾がついて、もとのラインが分かりにくいですが譜例を参考にして聞いてみてください。

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ブクステフーデ『神はわがやぐら』

もっと愛してもらうために

神からもっと愛してもらうために、私にできることは何もない。

神から愛されないようにするために、私にできることは何もない。(P. ヤンシー)

わたしたちはあまりにも「報酬としての愛」に慣れすぎているのです。ある人が他者に対して有益なことを行う報酬として他者から愛を期待するという考えにどっぷりと侵されています。自分が愛されるのは、その人にとって「いい人」だからなのだ、だから愛されるためには、その人にとって「いい人」であり続けなければならないと考えがちなのです。行き過ぎると、仮面をかぶってでも「いい人」であり続けたいという、うその生き方へと向かいかねません。そんな生き方から解放されるためのただ一つの方法は、神様との出会いを体験し、神様の無条件の愛を知り、信じることなのです。

冒頭に挙げた言葉は神様の無条件の愛をよくあらわしていると思います。神様はわたしたちがまだ罪人である時に最大限の愛をあらわし、十字架の死という形でその愛をお示しになられました。だから、もっとなにかをして神様の気を引き、「もっと愛してもらう」ことは必要ないし、また不可能なのです。神様の愛は無条件ですから、神様から愛されないようにすることも、また不可能なのです。

「神様がわたしを愛しておられる」という曲げることのできない事実を受け入れることの中に、本当の安らぎと喜びがあります。また、「いい人の仮面」を脱ぎ捨てて虚偽の人生から、真実の自分をとりもどすのもまた、この愛の中においてなのです。神様の愛の中にとどまることの中に自己の確立のための第一歩があります。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
(ローマの信徒への手紙8:35-39)

 

 

 

復興ソングさいたら節

掛声 (エンヤトット エンヤトット) 800px-Matsushima_miyagi_z
松島の サーヨー 瑞巌寺ほどの 寺もないとエー
アレワエーエ エトソーリャ大漁だエー
前は海 サーヨー 後は山で 小松原とエー
アレハエーエ エトソーリャ大漁だエー
石の巻 其の名も高い 日和山トエー
西東 松島 遠島 目の下に

斎太郎節は宮城県松島湾沿岸の民謡です。カツオ漁の大漁祝い唄として歌われてきました。東日本大震災で特に甚大な被害のあった三陸沿岸一円の漁村で親しまれていました。明日のチャペルコンサートでは被災地への復興応援歌として讃美歌と共にプログラムに入っており、子どもたちが元気に歌ってくれます。

今、歌の持つちからが注目されています。歌は歌う者と聞く者を結び付け、共感を引き起こし、慰めと希望の渦を引き起こしてゆきます。明日のささやかなチャペルコンサートが、集ってくださったお一人一人の新しい第一歩となることを心から願います。

 

↓明日のコンサートで使うさいたらぶし伴奏音源です。(SONARX1で作成)

http://player.soundcloud.com/player.swf?url=http%3A%2F%2Fapi.soundcloud.com%2Ftracks%2F26656671&show_comments=true&auto_play=false&color=ff7700斎太郎節伴奏音源 by kanmatsu1972

 

素朴な琴~八木重吉の詩

この明るさのなかへDSC_0936

ひとつの素朴な琴をおけば

秋の美くしさに耐えかね

琴はしずかに鳴りいだすだろう

             八木重吉『貧しき信徒』より

秋になると味わいたくなる詩があります。八木重吉の詩は味わう人の心に秋の柔らかな光のようになじみます。八木重吉は1898年生まれ。北村透谷や三木露風などに関心をもちましたが、同時に聖書に親しみ1919年に受洗しました。後に内村鑑三の影響を受け、終生独りで聖書の勉強を続け独自の純粋素朴で敬虔な信仰生活を貫いた詩人です。1921年、兵庫県に英語教師として赴任。1922年結婚。この頃より詩作に専念し、詩と信仰生活の合一を目指しました。1925年処女詩集『秋の瞳』を刊行しましたが翌1926年、すでに肺結核第二期と診断され休職、療養しながらも詩作を続けたが1927年29歳という若さでなくなりました。冒頭の詩が収められた自選の第二詩集『貧しき信徒』は没後の1928年に刊行されました。

あまりの秋の美しさに耐えかねて、静かになりだす琴…。確かに秋にはそのような心の琴線に触れる美しさがあります。聖書には人間の魂を琴と並べて描いている詩があります。

「神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。
わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。わたしはしののめを呼びさまします。」(
詩編57:7‐8口語訳聖書)

詩人が神の現存の美しさの前にたたずんでいたとき、心の喧噪や雑念はおさまり、静かに神へと向かいます。魂の目覚めの中で琴はしずかに鳴りいだし、今まさに日が昇ろうとする朝の空気を震わせるのです。八木重吉はしばしば、心の琴が奏でるように、イエスの名を呼び続けたことを詩の中で告白しています。

わからなくなった時は

イエスの名を呼びつづけます

わたしはいつもあなたの名を呼んでいたい

秋の気配の中で、わたしもまた心の琴で主の御名を奏でたいと願います。聖書に響く、素朴な一つの御言葉が秋の光のように胸に満ちます。

「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(使徒言行録2:21)

 

 

 

 

 

 

 

自己を高める能動的な愛

「人間にとってもっとも貴重なひとつの心の持ち方、それが愛であることは間違いなかろう。

もう一つつけ加えれば、愛し愛されるということはたしかに素晴らしいことではあるが、

自己を高めてくれるものはあくまでも能動的な愛だけである。

たとえ、それが完璧な片思いであろうとも。」(『どくとるマンボウ青春記』より)

今週24日、(それは私の誕生日でしたが、)作家の北杜夫さんが亡くなられました。私も学生時代、「どくとるマンボウ」シリーズや「さびしい王様」シリーズなどのユーモアいっぱいな作品から『夜と霧の隅で』、『楡家の人びと』などのシリアスなものまで、読み漁りその独特の語り口に魅了された思い出があります。人間に対する深い洞察を、いとも簡単明瞭な言葉づかいで表現する文章に驚き憧れたのを覚えています。

冒頭の言葉に深い共感を覚えます。北杜夫自身はエッセイで無宗教を公言していますが、この言葉に関して言えば聖書の教える愛の姿に響きあうものを感じます。能動的な愛はアシジの聖フランシスコの精神をあらわした「平和の祈り」の中にも祈られます。「愛されるよりも愛することを求めさせてください」と。「完璧な片思い」という言葉で表された無私の愛は、まさにキリストのご生涯をあらわすのにピッタリです。

ラディスラウス・ボロシエ著の『イエスとの実存的出会い』にも「能動的な愛」がいかに自己を高めるかについて書かれているのを思い出しました。

「愛は与えることである。人格の最も本質的なもの、つまり自分自身を与えるのである。」

「愛とは存在そのものの交換である。一人の存在は相手の存在によって成り立っている。愛する人は相手を完全に自分の中に受け入れて、その人によって生きようとする。愛する人は、愛することによって自己認識に目覚めて、自分の存在を深く洞察するようになる。」

「無私無欲な愛は人が人となるための道である。人は自分の殻を捨てて献身することによって、本来の自分の姿に目覚める。自分の殻から出てきてはじめて自分を知ることができる。」

「わたしたちの課題は自分自身に帰ることではなく、自己を超越し『より偉大なもの』になることである。このため『自分を与える』ときに、人間の素晴らしさが輝き出る。これによってのみ、人間は偉大なもの、不朽なもの、真実なものを身につけることができる。」

「愛を追い求めなさい」―聖書

メンデルスゾーン オルガンソナタ第6番 ニ短調

オルガンの名手であったF.メンデルスゾーンは、当時あまり評価されていなかったJ.S.バッハを広く世界に紹介したバッハ研究家の先駆けとしても知られています。バッハのコラール(ルター派教会の会衆賛美)にもとづくオルガン曲集(1844年発行)の編纂にあたっていたメンデルスゾーンは、時を同じくして6つのオルガンソナタ集をまとめ、1845年に出版しました。オルガンソナタという名前がついていますが、いわゆる古典ソナタ形式で書かれていません。バッハの生きたバロック時代、「ソナタ」は漠然と「器楽曲」を指す言葉で、特定の形式にとらわれない、自由な楽曲をまとめたものでした。メンデルスゾーンは偉大なバッハという先輩に敬意を表しつつ、100年の意味での「ソナタ」を書いたのでした。

さて、オルガンソナタ第6番はメンデルスゾーンのオルガンソナタ集を締めくくる楽曲です。このソナタは7つの小曲からなっています。コラール”Vater unser im Himmelreich”の旋律を主題にして、変奏曲のように曲が紡がれています。このコラールは「主の祈り」を会衆が歌うための賛美歌です。M.ルターは宗教改革者として有名ですが、その改革の一環として、会衆が母国語で賛美歌や祈りを歌うことができるようにしました。ルターは「主の祈り」を会衆が歌うことができるように、当時すでに親しまれていたであろう旋律に載せて紹介したのです。(譜)

オルガンソナタ第6番はこのコラールを奏でることから始まります。それに続いて細かい音符を下敷きに浮遊するように同じコラールの旋律を歌う第二曲に入ります。第3曲はコラールの音符一つに対し3つの音符を刻みながら、第4曲は低音部で奏でられるコラール旋律に、高音部が絡みながら歌われます。5曲目は曲想が一変、トッカータ風、即興的で急速な動きの音符を、コラールがうなるようにして支えます。ソナタ全体で最も華麗な部分です。第6曲はフーガ風で、複雑に変形されたコラールが絡み合い荘厳に響きます。最後の第7曲は一転して穏やかに歌うような曲想です。メンデルスゾーンが、自分の生きるロマン派時代の口調で、自身の祈りとして歌っているような印象を与えながら、ソナタは閉じられます。

Jos van der Kooyの演奏でこのソナタを聞き直してみました。折しも、宗教改革記念日が近く、1517年ヴィッテンベルグのチャペルの扉に自らの信仰態度を明らかにしたルターの情熱に思いをはせながら聴きました。会衆の口にある祈りと賛美の貴さを改めて想いました。