神はわがやぐら

Luther's_Ein_Feste_Burg今日、10月31日は宗教改革記念日でした。M.ルターは「聖書によれば、人間は善行でなく信仰によってのみ義とされる、すなわち人間を義とするのはすべて神の恵みである」として、煉獄にある霊魂が善行によって救われるなどとする当時の教会の考えに異議を唱えました。1517年のこの日「95か条の論題」をヴィッテンベルグのチャペルの扉に貼り出し、意見交換を呼びかけました。このことがきっかけとなり、いわゆる宗教改革がスタートしました。

訓練を受けた聖歌隊だけが複雑な合唱曲を歌うばかりであった教会の礼拝に、もう一度会衆の賛美の歌を取り戻すため、ルターは単純で歌詞の聞き取りやすい会衆賛美歌(コラール)を積極的に紹介しました。ルターは「詩編はイエスキリストの讃美歌だ」と詩編の重要性を強調していますが、彼は詩編にもとづいた賛美歌をたくさん書いています。その中でも特に有名なのが詩編46編に基づいて作られた賛美歌「神はわがやぐら」です。音楽の教養もあったルターは、この詩に対して自分でメロディーを作曲して紹介しています。

今年は、この「神はわがやぐら」と詩編46編をおもう時、東日本大震災のことを考えずにはおられません。詩編の作者は二つの水を対比させて歌っています。一つの水は、「海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」…災いをもたらす水です。津波の被害を連想させます。しかしもう一つの水は「大河とその流れは、神の都に喜びを与える」…喜びと平安の水です。その喜びの水は、神がおられるところにあると歌うのです。どうか震災で被災されたお一人一人と共に神様がいてくださり、心に慰めと平安を与えてくださいますように。

詩編46編より

神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
わたしたちは決して恐れない、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも
海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。
大河とその流れは、神の都に喜びを与える、いと高き神のいます聖所に。
神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。

賛美歌「神はわがやぐら」のルターの旋律は、多くの作曲家によって用いられています。バッハのオルガン曲(BWV720)やカンタータ(BWV80)、またメンデルスゾーンの交響曲第五番『宗教改革』などが有名(マニアックなところではドビュッシーの連弾曲「白と黒で」~ En blanc et noir”にもでてきますが…)ですが、今年はブクステフーデのオルガン曲(Bux148)でこのコラールを味わってみました。旋律にかなり装飾がついて、もとのラインが分かりにくいですが譜例を参考にして聞いてみてください。

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ブクステフーデ『神はわがやぐら』
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もっと愛してもらうために

神からもっと愛してもらうために、私にできることは何もない。

神から愛されないようにするために、私にできることは何もない。(P. ヤンシー)

わたしたちはあまりにも「報酬としての愛」に慣れすぎているのです。ある人が他者に対して有益なことを行う報酬として他者から愛を期待するという考えにどっぷりと侵されています。自分が愛されるのは、その人にとって「いい人」だからなのだ、だから愛されるためには、その人にとって「いい人」であり続けなければならないと考えがちなのです。行き過ぎると、仮面をかぶってでも「いい人」であり続けたいという、うその生き方へと向かいかねません。そんな生き方から解放されるためのただ一つの方法は、神様との出会いを体験し、神様の無条件の愛を知り、信じることなのです。

冒頭に挙げた言葉は神様の無条件の愛をよくあらわしていると思います。神様はわたしたちがまだ罪人である時に最大限の愛をあらわし、十字架の死という形でその愛をお示しになられました。だから、もっとなにかをして神様の気を引き、「もっと愛してもらう」ことは必要ないし、また不可能なのです。神様の愛は無条件ですから、神様から愛されないようにすることも、また不可能なのです。

「神様がわたしを愛しておられる」という曲げることのできない事実を受け入れることの中に、本当の安らぎと喜びがあります。また、「いい人の仮面」を脱ぎ捨てて虚偽の人生から、真実の自分をとりもどすのもまた、この愛の中においてなのです。神様の愛の中にとどまることの中に自己の確立のための第一歩があります。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
(ローマの信徒への手紙8:35-39)

 

 

 

復興ソングさいたら節

掛声 (エンヤトット エンヤトット) 800px-Matsushima_miyagi_z
松島の サーヨー 瑞巌寺ほどの 寺もないとエー
アレワエーエ エトソーリャ大漁だエー
前は海 サーヨー 後は山で 小松原とエー
アレハエーエ エトソーリャ大漁だエー
石の巻 其の名も高い 日和山トエー
西東 松島 遠島 目の下に

斎太郎節は宮城県松島湾沿岸の民謡です。カツオ漁の大漁祝い唄として歌われてきました。東日本大震災で特に甚大な被害のあった三陸沿岸一円の漁村で親しまれていました。明日のチャペルコンサートでは被災地への復興応援歌として讃美歌と共にプログラムに入っており、子どもたちが元気に歌ってくれます。

今、歌の持つちからが注目されています。歌は歌う者と聞く者を結び付け、共感を引き起こし、慰めと希望の渦を引き起こしてゆきます。明日のささやかなチャペルコンサートが、集ってくださったお一人一人の新しい第一歩となることを心から願います。

 

↓明日のコンサートで使うさいたらぶし伴奏音源です。(SONARX1で作成)

http://player.soundcloud.com/player.swf?url=http%3A%2F%2Fapi.soundcloud.com%2Ftracks%2F26656671&show_comments=true&auto_play=false&color=ff7700斎太郎節伴奏音源 by kanmatsu1972

 

素朴な琴~八木重吉の詩

この明るさのなかへDSC_0936

ひとつの素朴な琴をおけば

秋の美くしさに耐えかね

琴はしずかに鳴りいだすだろう

             八木重吉『貧しき信徒』より

秋になると味わいたくなる詩があります。八木重吉の詩は味わう人の心に秋の柔らかな光のようになじみます。八木重吉は1898年生まれ。北村透谷や三木露風などに関心をもちましたが、同時に聖書に親しみ1919年に受洗しました。後に内村鑑三の影響を受け、終生独りで聖書の勉強を続け独自の純粋素朴で敬虔な信仰生活を貫いた詩人です。1921年、兵庫県に英語教師として赴任。1922年結婚。この頃より詩作に専念し、詩と信仰生活の合一を目指しました。1925年処女詩集『秋の瞳』を刊行しましたが翌1926年、すでに肺結核第二期と診断され休職、療養しながらも詩作を続けたが1927年29歳という若さでなくなりました。冒頭の詩が収められた自選の第二詩集『貧しき信徒』は没後の1928年に刊行されました。

あまりの秋の美しさに耐えかねて、静かになりだす琴…。確かに秋にはそのような心の琴線に触れる美しさがあります。聖書には人間の魂を琴と並べて描いている詩があります。

「神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。
わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。わたしはしののめを呼びさまします。」(
詩編57:7‐8口語訳聖書)

詩人が神の現存の美しさの前にたたずんでいたとき、心の喧噪や雑念はおさまり、静かに神へと向かいます。魂の目覚めの中で琴はしずかに鳴りいだし、今まさに日が昇ろうとする朝の空気を震わせるのです。八木重吉はしばしば、心の琴が奏でるように、イエスの名を呼び続けたことを詩の中で告白しています。

わからなくなった時は

イエスの名を呼びつづけます

わたしはいつもあなたの名を呼んでいたい

秋の気配の中で、わたしもまた心の琴で主の御名を奏でたいと願います。聖書に響く、素朴な一つの御言葉が秋の光のように胸に満ちます。

「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(使徒言行録2:21)

 

 

 

 

 

 

 

自己を高める能動的な愛

「人間にとってもっとも貴重なひとつの心の持ち方、それが愛であることは間違いなかろう。

もう一つつけ加えれば、愛し愛されるということはたしかに素晴らしいことではあるが、

自己を高めてくれるものはあくまでも能動的な愛だけである。

たとえ、それが完璧な片思いであろうとも。」(『どくとるマンボウ青春記』より)

今週24日、(それは私の誕生日でしたが、)作家の北杜夫さんが亡くなられました。私も学生時代、「どくとるマンボウ」シリーズや「さびしい王様」シリーズなどのユーモアいっぱいな作品から『夜と霧の隅で』、『楡家の人びと』などのシリアスなものまで、読み漁りその独特の語り口に魅了された思い出があります。人間に対する深い洞察を、いとも簡単明瞭な言葉づかいで表現する文章に驚き憧れたのを覚えています。

冒頭の言葉に深い共感を覚えます。北杜夫自身はエッセイで無宗教を公言していますが、この言葉に関して言えば聖書の教える愛の姿に響きあうものを感じます。能動的な愛はアシジの聖フランシスコの精神をあらわした「平和の祈り」の中にも祈られます。「愛されるよりも愛することを求めさせてください」と。「完璧な片思い」という言葉で表された無私の愛は、まさにキリストのご生涯をあらわすのにピッタリです。

ラディスラウス・ボロシエ著の『イエスとの実存的出会い』にも「能動的な愛」がいかに自己を高めるかについて書かれているのを思い出しました。

「愛は与えることである。人格の最も本質的なもの、つまり自分自身を与えるのである。」

「愛とは存在そのものの交換である。一人の存在は相手の存在によって成り立っている。愛する人は相手を完全に自分の中に受け入れて、その人によって生きようとする。愛する人は、愛することによって自己認識に目覚めて、自分の存在を深く洞察するようになる。」

「無私無欲な愛は人が人となるための道である。人は自分の殻を捨てて献身することによって、本来の自分の姿に目覚める。自分の殻から出てきてはじめて自分を知ることができる。」

「わたしたちの課題は自分自身に帰ることではなく、自己を超越し『より偉大なもの』になることである。このため『自分を与える』ときに、人間の素晴らしさが輝き出る。これによってのみ、人間は偉大なもの、不朽なもの、真実なものを身につけることができる。」

「愛を追い求めなさい」―聖書

メンデルスゾーン オルガンソナタ第6番 ニ短調

オルガンの名手であったF.メンデルスゾーンは、当時あまり評価されていなかったJ.S.バッハを広く世界に紹介したバッハ研究家の先駆けとしても知られています。バッハのコラール(ルター派教会の会衆賛美)にもとづくオルガン曲集(1844年発行)の編纂にあたっていたメンデルスゾーンは、時を同じくして6つのオルガンソナタ集をまとめ、1845年に出版しました。オルガンソナタという名前がついていますが、いわゆる古典ソナタ形式で書かれていません。バッハの生きたバロック時代、「ソナタ」は漠然と「器楽曲」を指す言葉で、特定の形式にとらわれない、自由な楽曲をまとめたものでした。メンデルスゾーンは偉大なバッハという先輩に敬意を表しつつ、100年の意味での「ソナタ」を書いたのでした。

さて、オルガンソナタ第6番はメンデルスゾーンのオルガンソナタ集を締めくくる楽曲です。このソナタは7つの小曲からなっています。コラール”Vater unser im Himmelreich”の旋律を主題にして、変奏曲のように曲が紡がれています。このコラールは「主の祈り」を会衆が歌うための賛美歌です。M.ルターは宗教改革者として有名ですが、その改革の一環として、会衆が母国語で賛美歌や祈りを歌うことができるようにしました。ルターは「主の祈り」を会衆が歌うことができるように、当時すでに親しまれていたであろう旋律に載せて紹介したのです。(譜)

オルガンソナタ第6番はこのコラールを奏でることから始まります。それに続いて細かい音符を下敷きに浮遊するように同じコラールの旋律を歌う第二曲に入ります。第3曲はコラールの音符一つに対し3つの音符を刻みながら、第4曲は低音部で奏でられるコラール旋律に、高音部が絡みながら歌われます。5曲目は曲想が一変、トッカータ風、即興的で急速な動きの音符を、コラールがうなるようにして支えます。ソナタ全体で最も華麗な部分です。第6曲はフーガ風で、複雑に変形されたコラールが絡み合い荘厳に響きます。最後の第7曲は一転して穏やかに歌うような曲想です。メンデルスゾーンが、自分の生きるロマン派時代の口調で、自身の祈りとして歌っているような印象を与えながら、ソナタは閉じられます。

Jos van der Kooyの演奏でこのソナタを聞き直してみました。折しも、宗教改革記念日が近く、1517年ヴィッテンベルグのチャペルの扉に自らの信仰態度を明らかにしたルターの情熱に思いをはせながら聴きました。会衆の口にある祈りと賛美の貴さを改めて想いました。

説教メモ:生きることはキリスト

●「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」ガラテヤ2章19~20節

1.回心するまでのパウロrose

  • 律法によって神に生きようと努力
  • 律法が要求するハードルに挑戦>>「むさぼるな」というハードルに直面した時、倒れて失格・落伍
  • 「罪が生き返って、わたしは死にました」
  • 「永遠の命を与えてくれるものと信じ切っていた律法は、わたしを断罪し殺してしまった、」

2.すべての人間の現実=零点・無

  • 人祖アダムの子孫であり、原罪を生来的に宿している人間は、律法によっては決して義とされない
  • (人間は死の宣告を受けた時、命への激しい渇望に泣く)
  • 「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」

    ⇒死点・無において、命への転換に目覚める

3.どのように死人は復活し得るか。⇒死人の中から復活された生けるキリストに出会うこと

  • イエス・キリスト「わたしはよみがえりであり、命である。」(ヨハネ 11・25~26)
  • イエス・キリストは、人類の歴史の中でただひとり、死から復活し今も生きておられるお方、出会うことのできる神であり、救い主

  永遠の生命に生きる=イエスの神性とメシヤ性を信じ、聖霊のバプテスマにおいて、永遠の命を心に持つ。

  • 自己の内なる古き人は十字架につけられ、生けるキリストご自身が生きてくださる。
  • 全くすばらしい、新しい生活が私の内に開始される。
  • キリストの生活、キリストの公生涯の再現・延長となる

●「わたしにとって、生きるとはキリスト」フィリピ1章21節

1.「わたしにとっては、生きることはキリスト」=完全にキリストに変容されている状態。

  • 使徒パウロにおいては、まさにそれは現実であり、彼は「もうひとりのキリスト」だった
  • 使徒パウロの輝かしい使徒職の秘訣は、実にここにあった。

2.人間を御子の生き写しに再創造することこそ、キリストのあがないの目的。

3.人々が神と出会うのは、使徒の内に現存される、生けるキリストに出会うことにおいて。